サメと猫

年末憂鬱なくぬるっと年越し、今年の抱負はJava資格と頑張る読書

新年あけましておめでとうございます。

昨年は、毎年恒例の年末憂鬱もないままぬるっと年を越してしまった。

多分年末ギリギリまで仕事が結構あったせい。ありがたい気もするが普通に嫌。

 

今年の抱負を書きます。

読み返して「あ…」ってなれ自分。

 

まずは早急にJavaの資格を取らなくてはいけない。これは今年の、とかじゃなくなるべく早く。

なぜなら、昨年の4月に職場の面談(半年スパンで目標を立てさせられる)で、上司に「取ります!」と鼻を広げて宣言したくせに取らず、10月の面談で「まだとってないです…すぐ取ります…」と小さくなりながら再宣言したのに年を越してしまったからだ。

4月の面談で取っていないとは言えないし、頭の片隅にずっといるのでさっさと解放されたい。

そして二度と資格取得を目標に設定しない。もっとふわっとした目標を立てなくてはならない。

 

次に、たくさん水を飲むこと。

極度の面倒くさがりのため、水を取りに行くのが億劫でなかなか水を飲まない。

サーモスのピッチャーを買えばまとまった量の水をデスクに置いておけるではないか!と閃いた時は、解決を確信した。

サーモスの、と書くだけで保冷保温機能付きであるイメージが湧くの、ブランドイメージすごい。)

しかし、今度はピッチャーに水を入れるのが面倒で意味がなかった。洗うのもちょっとめんどい。(手元に届いて1週間くらいは嬉しくてどかどか水を飲んでいたが)

この件で、水を飲むというのは結構努力が必要な行動であることを知った。

だから今年はこうして1年の初めにあえて「水を飲むんだぞ!」という決意を固めているのだ。

 

最後に、本を頑張って読むこと。

今までは「読書は頑張るものじゃないっしょ、嫌いになっちゃうよ。」と思っていたのだが、今年は頑張ってたくさん本を読みたい。

多分、頑張っても嫌いになることはないと思える程度には、読書を続けることができており、読書との距離感が掴めてきたのだと思う。

なので今年はたくさん読む。

序盤だけ読んで寝かせている『東京の生活史』読むぞ!

 

AIに記事タイトルを考えさせる機能が実装されていたので、この記事のタイトルを提案させてみた。

検索エンジン向け・ソーシャルメディア向けとそれぞれ提案、設定できるみたいだけど、どの案も水を飲む抱負を拾ってくれていないのはなぜなのか。

唯一拾っている一番下、「水を飲むのも大変だった」とマスコミみたいな高度な語弊を生んでいて面白い。

 

OLが無言で飯食いながら字幕で語るYouTube多すぎ

毎年言っているけど、冬は無気力になるよね。

冬は無気力。マイ枕草子の冬は「冬は無気力」

 

会社の半期目標みたいなので資格を取ります、と言っておいて取らずに下期になり、今期こそ取ります。今年中に。と言っておきながらもうすぐ年末である。

それも全部冬は無気力、のせいだと思う。

 

 

今年の4月から入ったプロジェクトは完全在宅勤務なんだけど、家にいると本当に水を飲まない。午後くらいになって、「あれ?今日まだ一口も水飲んでなくない?」と気づくこともある。

取りに行くのが面倒なのかも、と思い立ち、ラーメン屋にあるようなピッチャーを買ってみたら、手元に常に水を置いておける快適さに感動し、めっちゃ水を飲むようになった。

「これはQOL爆上がりですわw」 と喜んでいたのだが、1、2週間も経つとピッチャーに水を入れるのが面倒になり結局水を飲まなくなってしまった。

俺は新しく買ったものを使いたくて水を飲んでいただけなのか…と少し凹んだが、水を飲むのになんか結構モチベーションが要るという気づきは得ることができた。

自分にとってはそれくらいハードルが高いので、毎日「水を飲むぞ!」という強い意志を持って水を飲む活動に取り組まないといけないみたい。

 

1人暮らしを始めてもうすぐ2年経つけど、徐々に生活が雑になってきている実感がある。自炊の頻度が減ってきてるし、掃除も雑になってきてるし(ルンバ頼り)、よくないな~とは思っているが、元が怠惰な人間なので一度堕ちるとなかなか戻すのが大変だ。

そんな感じなので、全くもって”丁寧な暮らし”の思想は持っていないのだけど、「生活」というもの自体は好きで、常に興味がある。

エッセイとか、他人の生活を窺い知ることができるものも結構好きなので、YouTubeとかで他人の生活が見たくて動画を探すんだけど、結局出てくるのは"丁寧な暮らし"系のものばっかりなのが悩ましい。(独身OLがご飯を食べている動画もめっちゃある)

まあよく考えれば、全世界に己の生活を晒すとなれば、相応に手の込んだ素敵な暮らしになるのは自然なことなのかもしれない。

昼前くらいに起きて、洗濯とちょっとの掃除といった必要最低限の家事を済ませたあとに冷凍食品を食べ、夕方までゲームや読書をして夕飯…

といった生活は大多数の人にとっては全くもって興味が湧かないだろう。

でも自分が見たいのはそれくらい、つまり自分と同じくらいの水準で生活をしている人たちであり、素敵で有意義な一日にするためのモーニングルーティン!など目が痛くなってしまうのだ。

その水準の人たちのなかではすでに需要と供給が成立しているので、もっと緩く生活している人も動画をあげてくれ~と思っている。

自分は絶対にできないが。

というか生活を動画用に記録するという行為自体、結構手間がかかるので、我々のような人種にはそもそも無理では…と思ってきた。

獄門疆、開門

仕事がちゃんと忙しくなってきた2年目、反比例して生活が薄まっていて良くない。

なぜだかアプリの開発をDB、サーバー、画面全部一人でやらされていて普通にタスク過多だし、2年目が受け持っていい範疇じゃないので、「いいんだな?俺にやらせていいんだな?知らないからな?」という気持ちで開き直ってやっている。ミスっても納期間に合わなくても上司の責任。

任されているなんてポジティブにとらえることもできるだろうけど、というかこの話をしていること自体、大変だわー(チラッチラッ)みたいなニュアンスにとられるのかもしれないけど、全然そんなことはなくて、普通にやめてほしいし人を増やしてほしい。

 

今年はもう一つ、しばらく会っていなかった人達に会う機会が急に増えた。

高校の同級生も、大学の友人も、卒業以来会っていなかったような人達が声をかけてくれ、あるいは企画をしてくれ、不思議なくらい重なった。

定期的に会う友人とは、なんかそういう時期というか、年頃なのかね~、コロナも落ち着いたし、なんて主婦のような会話をしたが、ほんとに何だったんだろう。

1つはかなり大人数で集まるプチ同窓会みたいな感じで、ちょっと緊張してたけど、行ってみたら楽しかった。

もう一生会わないと思ってた人と会って、近況を聞いたりすると、みんなちゃんと人生してるんだな~と勝手に感慨深くなっちゃった。

 

普段、人混みを眺めているとこれに似た感覚になることがある。

駅の改札前とか、他人が沢山行き交うところをみているときふと、

この人たちそれぞれが数十年生きてきてるんだよな、と不思議な気持ちになり、

その仮想の時間がやけに大きく感じる。

時間は平行なことはわかっているんだけど、目に入る人々の人生としての時間たちは、なんだか合計として認識してしまい、その大きさに畏れのような気持ちが湧いてくる。

友達も、街ですれ違う人も、電車にいるちょっとヤバい人も、みんな子供のころから人生送ってきてて、今たまたまそこにいて、その後また、ご飯何食べるかとか、大小色々選択しながらそれぞれの時間を過ごしていくというのがとても不思議に感じるこの感覚は、よく考えれば結構子供のころからあったかもしれない。

 

変にロマンチストみたいに捉えられていたら嫌なんだけど、単純に、自分の時間軸1つのシングルスレッドだと思って生きているところに、突然ものすごい数のマルチスレッドみたいな状況を感じ取ってうわあああってなっているだけなんだと思う。

時間って概念は曖昧でこわいですね。

呪術廻戦の獄門疆は脳内時間で1分経過が条件らしいので、こんなこと考えてたら一瞬で封印されそう。

 

サーティワンは結局ポッピングシャワーです。(結論)

ああ、カラマーゾフは4巻でまた失速しています。

カラマーゾフが面白くないとかではなく、ゲームが忙しい。原神が楽しすぎる。

 

そんなことはどうでもいいんだけど、最近は日々特になさ過ぎてよくないなと思っている。

週5在宅勤務だとマジで、本当に、外に出ないので、週末に1週間ぶりくらいに外出ると、外界の眩しさにやられそうになったりする。

なるべく外に出ようとは思うんだけど、平日はなかなか。

一生コード眺めてるので、植物とか自然のもの見て心に沁みたりする。

たまに外に出たときは色々と目に留まるので、最近見かけて覚えているもの↓

 

夕方、駅前の駐輪スペース前、階段下の物陰で、一人缶ビールを飲んでいたスーツのおじさん

もう結構暑いのに。あとは自転車に乗って帰るだけだろうに、なぜそんなところで…

家は居心地が悪いのだろうか。奥さんとの関係悪化?反抗期の娘?

仕事に疲れ、帰った我が家で煙たがられるなんてあまりに不憫だ。

家では飲めないけど、店で飲んで帰るとそれも咎められるのかな。それとも単にお小遣いが少ないのか…

と、勝手な想像をしていた。

階段下の陰でビールを飲むおじさんの姿は、そんな想像をするには十分なくらい哀愁を湛えていた。

 

駅前で怪しい新聞を配る、宗教の人たち

どこにでもいるよね。今までも何度も遭遇してるんだけど。

顕正会って宗教団体らしいけど、詳しくは知らない。

日蓮宗の系譜を名乗ってて、よくある終末論で不安を煽ってる。

マルチと一緒で、周りの人間を勧誘して信頼を失って、孤立していく。

孤立したらもう縋る先は宗教なので、むしろマルチより質が悪いのかもしれない。

新興宗教はもはや悪徳ビジネスで、カモがカモを釣っているわけだけど、どうしてそんなものにはまってしまうのかは常に気になる。

自分とは無関係の存在として、いつも特に気にせず通過しているけど、親しい人がこういうものにハマってしまった時、自分はうまく救えるのか。

心を病んでしまったり、何か原因を探るところから始めないといけない。

そもそもその人をそこから引き剝がすことが「救う」ことになるのか。その人はすでに宗教に「救い」を見出しているかもしれない。

そうなったらもうできることはないかもな。でも絶対放ってはおけないよなあ。

駅前に並んだ人々の後ろにも、そんな葛藤に苦しむ親族や友人がいるのかもしれないと思うと、なんだか今回はやけに印象に残った。

 

サーティワンアイスクリームをうまそうに食べているガキたち

こんなん良いに決まってるよね。

ガキは基本好きじゃないけど、そういう平和な光景は、光景として良い。

最寄りの駅の駅ビル?みたいな施設にあるので、駅に行くときは前を通るんだけど、週末は家族連れがいっぱいいる。

その店舗は細長くて小さいテーブルが2,3個あるだけなので、基本ガキたちがそこでアイスを食べていて、親たちは外にはみ出している。子どもが1だとしても親はx2なので、結構な人数の大人がはみ出している。

微笑ましく見守ってる親もいれば、服を汚さないか不安そうに眺める親もいるし、普通にデカい声で注意している親もいる。

そういえば自分もアイス食べてる親はあんまり見ないな。俺が親だとしたら、俺も食べたいが。まだ親にはなれないのかも。

 

外歩いているときは、こんな感じで見かけたものについてぼんやり色々考えてる。

結構覚えてるもので、今回かなり頭の中をそのまま書いた感じで少し抵抗が...

でもこういうものほど時間が経ってから読むと面白いもんね。

カラマーゾフ読み切るぞ!

なんかさっきネガティブ放出文章を書いたついでに過去の文章を見返してたけど、その時かんがえてたことがわかるのはやっぱ面白い。

今後も定期的に書いていこうと改めて思いました。

別に公開する必要ないし実際半分くらい下書きに入ってるんだけど、公開したほうが後に引けない感出て、次、ってなる。どうせ見られて数人だし。

今日は家の掃除とかも結構頑張ったし、いろいろやるぞという気持ちが沸いていていいぞ、これが続けばもっといいんだがね、仕事始まると終わるのよね。

 

ついでに書くと、大学の時に2巻まで読んで終わっていたカラマーゾフの兄弟を読み切ろうと3巻を買って、あんまり覚えてないしせっかくだからと1巻から読み直してたんだけど、今日ようやく3巻にたどり着いた。

開いたらレシート出てきて、日付が去年の10月で笑った。

ゲームばっかしてたとはいえ、1,2巻読むのに半年かけてた。修行すぎる。

2巻の途中に村上春樹の新作が出たので、2巻読み終わったら読むぞと思っていたけど、いざ読み終えると普通に3巻行きたくなってしまったので村上春樹はお預けです。

 

カラマーゾフの兄弟(前半)は結構宗教的な話題が多くて、それもある登場人物が持つ思想、みたいな形で書かれるからかなり読みづらかったりして本当に進みが遅い。

結局はドストエフスキーの思想と言えばそうなんだろうけど、それをそう受け取らせないというか、あくまでも登場人物の頭の中として書くのを徹底している感じがする。

あといちいち人物の思想やら経歴やらを濃く描いていて、かなりカロリーが高い。

1, 2巻合わせて文庫で900ページくらいあるけど、本筋の物語だとまだ3日か4日しか経ってなくてびっくりした。

 

噂によると3巻からが面白いらしいのでいまノッているうちに読み切りたい。

 

 

何もない

社会人2年目に入って少し。

気づくと毎日無為に過ごしてもう2ヶ月経とうとしてる。今年も半分近く過ぎてる。

最近、生活に飲み込まれてるなという実感?危機感?をうっすらと感じている。

特に区切りもないので、目先の休みを気にして仕事をこなすばかりで、変化がない。

週に5日働いて、2日休む。それを4回繰り返したらもう1ヶ月過ぎて、え、もう〇月?を毎月やってる。

最近それがなんだかもったいない気がしてる。別に成長とかそんな意識の高い悩みではなく、漠然と20代前半のこの時間にはもっといい使い道があるんじゃないか…という焦り。

毎日ゲームしてるだけなので確実にあるんだけど。

 

ゴールデンウイーク初日にコロナを発症して、有休を入れて作り出した9連休はすべて家で過ごした。

その反動も後押ししてか、今月は少し出かける日が多かった。

家の中を強化したい欲があって雑貨とか買いにいったりした。"ポプリ"なる、部屋の中をいい匂いにする枯れ草みたいなのも買った。意識高い女子大生と言われたけど、いい匂いだから気に入ってる。

飲食店を開拓したい気持ちも沸いていて調べてみたり。最近あまり読めていなかった本もちょくちょく読んでみたり。

上京したての大学生みたいなモチベーションで滑稽だ。

自分の中ではとりあえずゲーム以外に時間を使うことでリハビリをしているような気持ち。

 

 

こうして書いていると、特に書くことも浮かばなくて、本当に無為に過ごしていたんだと実感する。最後に書いたの去年の終わりだったし。

くだらないことばっかりだったけど、前はもっといろいろ考えてて取り留めもなく下書きに書き残してたりしたのにそういうのもない。

油断してるとふと気づいたときに20代終わってて、

あれ、何してたっけ?

となりかねないので、本当に気を付けたい。

とりあえずゲームだけして過ごすのよくないんだよね、すべてはこれ。楽しいけど、何も残らないんだよねゲームって。

 

 

昨日は大学のゼミ仲間と久々に集まって、せっかくなのでゼミの先生にも声を掛けたら来てくれた。もともと学部長をやっていた結構立場のある人だったけど、一年ぶりに会ったらまた出世して肩書が増えていた。もう無理!!と駄々をこねていた。

少なくとも俺がゼミに入った4年前から、学部長やめたい、仕事減らしたい、とずっと言っているのに毎年出世していて、普通ならめでたいのに不憫で面白い。

 

その人は立場もそうだけど、人間を尊敬できる人で、なんか大学時代を思い出して、勉強しなきゃ、と思った。歳とって厚みのある人間になりたい。大学もう一回行きたいな、となんとなくずっと思っているけど、その先生に会うとその気持ちが強まる。

 

受験準備期間と、学費をある程度貯められれば、フリーランスになって少し生活費を稼ぎつつ通ったり可能だろうか。結構金かかるよなあ、怠けたつもりはないけど、もっと大学時代勉強しておけばよかったと激しく後悔してる。

 

 

周りにはすごい人が沢山いて、彼らはどんどん進んでて、凡人の自分はそれをみて焦りと漠然としたモチベーションを感じるだけでなにも生まなくて、こんなもの書いて何かしている感を出して何とか自尊心を保っているの本当にダメだ。虚無。

凡人は凡人なりにとりあえず資格とか取るか。仕事で取りますって言っちゃったし…これから資格勉強しよ。

こんだけだらだら書いてようやく資格勉強に取り掛かるの雑魚すぎる。

仕事しながら資格とかやってる人全員本当にすごい。みんなすごいな。

三人称って厄介

打ち明け話を聞いた後にやってくるのは、それをうっかり外に漏らしてしまわないだろうかという不安と、そのプレッシャーによる憂鬱だ。

「俺はあの人の前でこの話題には触れない。」そんなささやかな自己暗示を行なって多少の安心を得る。

 

これって自分だけじゃないと思うんだけど、酒を飲んでいる時にトイレに行ったりして一人になると急に冷静になる。

それだけならいいんだけど、ついさっきまでの自分を思い出して

うわ、酔ってるな〜

と客観視したりする。

そしてそんな自分を

突然冷静になって客観視してる自分キモいな

と客観視する。

そしてそんな自分を...

というように、無限に自分を俯瞰するバグに突入することがある。(実際には地続きに思い出して思考しているだけだろう)

while(1) {

 「「自分きもいな笑」」

}

 

いや、別に酔ってなくとも普段から、何か自分の行動に不安があるとそうやって主観の自分を遠ざけ、リアリティを薄めている。

単なる現実逃避だ。

「やべ、変なこと言ってないかな」みたいな一抹の不安から逃れるように、自分は冷静であると錯覚できる距離まで主観を殻に包んでいく。

人格が入れ子になったマトリョーシカのような。

「人格マトリョーシカ」って新しいボカロ曲みたいだな。痛いからウケそうだ。