サメと猫

楽になれた実感はあるんだろうか

 今日もバイトに行った。少し混んだけど、特に何事もなく終わった。強いて言うなら、2名入っていた予約の客のうち、男性1人が時間通りに来て、「もう1人少し遅れてきます。」と言ってから1時間ずっともう1人が来なかった上に、何度も電話をかけては相手がそれに出ている様子がないので、社員さんと2人で「振られた?お振られになられた?」と騒ぎながら見守っていたけど1時間遅れで突然女性が来た。よかったやん。

 帰りの電車が運休していた。人身事故らしい。始発の駅なので電車に座って待てたからまだいい。暇なのでTwitterでちょっと調べたら、すぐに「〇〇駅で飛び込み」のような記事等が見つかった。本当か知らんけど、正直なところ飛び込み自殺は他人からしたらただ迷惑で、ストレスになる。そう思う事自体は罪じゃないと思う。

 でも、事前に計画して飛び込む自殺者ばかりじゃなくて、死にたいと思うほど辛くて追い詰められてて、駅のホームにいて、もうすぐ電車が来るとアナウンスが聞こえて、ふと「今飛べば楽になれる」そう思いついてしまったら。そう思うと、少なくとも自分は、飛び込んだ人を責める気になれない。

 善い人振りたいんじゃない。きっとそうやって自分を宥めて運行再開を待つ人は多いはずで、それでも自分の時間が奪われ、予定が狂わされたことに対する憤りは湧くわけで、そんな大勢の行き場のない負の感情がどんよりと沈む空間にいるのがなによりもストレスだった。

 自殺する人、したいと言う人の気持ちは、結局自分には理解しきれないと思う。人並みに過ごせていたらそうなる必要がないほどに、もう世間の普通が通じないくらいに、心が歪められてしまっているのかもしれない。それはもう俺らみたいな「普通」に生きてる人間には想像つかないんじゃないか。それを分かったフリして、「辛いのはわかるけど、生きよう」みたいな意見を持つのは無神経で烏滸がましいことなんじゃないかと思うと、気持ちを理解しようとすることすら軽率かなという気になってくる。

 他人の生死に口を出す権利なんてあるだろうか。自分にできるのは、死んでほしくないって気持ちを伝えることだけなのか。

 本当に苦しくて、追い詰められて、「死にたい」という人に生きろというのは、もう少し地獄にいろという提案で、それは軽率に言ってはいけない言葉だと思う。延ばされた地獄を生きるその人に寄り添って、そこから救い上げる覚悟がなければ無責任な発言になってしまう。自分にはできるだろうか。

ただ一つ、常々思うのは、生きているこの世界があまりにも辛く苦しいから解放されるために死にたい、という人たちが、死の間際にちゃんと解放された実感、苦しみから逃れた実感を得られるのだろうかということ。死ねばそれを意識する脳も停止するのだから、解放されたことを自覚する前に終わるんじゃないのか。だとしたらあまりにも救いがないよなと思う。

 電車も動き出し、最寄り駅から家への帰り道。こんなことを考えながら自転車を漕いでいたら、枯れ始めた彼岸花が変に目に付いた。これを無理に何かに結びつけるのはよしておこうと思った。