サメと猫

獄門疆、開門

仕事がちゃんと忙しくなってきた2年目、反比例して生活が薄まっていて良くない。

なぜだかアプリの開発をDB、サーバー、画面全部一人でやらされていて普通にタスク過多だし、2年目が受け持っていい範疇じゃないので、「いいんだな?俺にやらせていいんだな?知らないからな?」という気持ちで開き直ってやっている。ミスっても納期間に合わなくても上司の責任。

任されているなんてポジティブにとらえることもできるだろうけど、というかこの話をしていること自体、大変だわー(チラッチラッ)みたいなニュアンスにとられるのかもしれないけど、全然そんなことはなくて、普通にやめてほしいし人を増やしてほしい。

 

今年はもう一つ、しばらく会っていなかった人達に会う機会が急に増えた。

高校の同級生も、大学の友人も、卒業以来会っていなかったような人達が声をかけてくれ、あるいは企画をしてくれ、不思議なくらい重なった。

定期的に会う友人とは、なんかそういう時期というか、年頃なのかね~、コロナも落ち着いたし、なんて主婦のような会話をしたが、ほんとに何だったんだろう。

1つはかなり大人数で集まるプチ同窓会みたいな感じで、ちょっと緊張してたけど、行ってみたら楽しかった。

もう一生会わないと思ってた人と会って、近況を聞いたりすると、みんなちゃんと人生してるんだな~と勝手に感慨深くなっちゃった。

 

普段、人混みを眺めているとこれに似た感覚になることがある。

駅の改札前とか、他人が沢山行き交うところをみているときふと、

この人たちそれぞれが数十年生きてきてるんだよな、と不思議な気持ちになり、

その仮想の時間がやけに大きく感じる。

時間は平行なことはわかっているんだけど、目に入る人々の人生としての時間たちは、なんだか合計として認識してしまい、その大きさに畏れのような気持ちが湧いてくる。

友達も、街ですれ違う人も、電車にいるちょっとヤバい人も、みんな子供のころから人生送ってきてて、今たまたまそこにいて、その後また、ご飯何食べるかとか、大小色々選択しながらそれぞれの時間を過ごしていくというのがとても不思議に感じるこの感覚は、よく考えれば結構子供のころからあったかもしれない。

 

変にロマンチストみたいに捉えられていたら嫌なんだけど、単純に、自分の時間軸1つのシングルスレッドだと思って生きているところに、突然ものすごい数のマルチスレッドみたいな状況を感じ取ってうわあああってなっているだけなんだと思う。

時間って概念は曖昧でこわいですね。

呪術廻戦の獄門疆は脳内時間で1分経過が条件らしいので、こんなこと考えてたら一瞬で封印されそう。