サメと猫

井伏鱒二「夜ふけと梅の花」

 井伏鱒二の『山椒魚』という短編集の中に、『夜ふけと梅の花』という作品がある。ある日怪我をした酔っぱらいに絡まれ成り行きでお金を受け取ってしまった主人公が、その罪悪感から相手への認識をどんどんと歪ませていく話なのだが、人間がいかに主観で自分の周りの世界を作り上げているのかがユーモラスに描かれていて面白かった。心の中に生まれた小さな悪というか、黒いものを自分でどんどん育ててしまって、自分までそれに蝕まれていく様子はどうにも他人事に思えないところがある。

 受け取ったお金を返しそびれ、そのうち貧乏故に使ってしまったことで、借金のような、概念としてのお金が頭から離れなくなり苦しむ主人公の姿は面白くもあり、どこかで経験したことがあるようなリアルな心情描写で読み応えがある。物語は梅の花の描写に始まり、最後にもまた梅の花が描かれる。暗く湿った話の初めと終わりを花で飾るその書き方がとても綺麗だと思った。

 個人的な印象だけど、井伏鱒二は自然や風景を文字でとても豊かに表現するのが得意で、それが好き。読んでいると想像が捗る文章。淡々と描かれる風景に、登場人物が主張しすぎずに溶け込んでいて一つの絵のようにゆったりと楽しめる感じ。移動時間などにおすすめです。7.12