サメと猫

亡くしても失くさずに

 身近な人を亡くしたとき、いつもその人が突然存在しなくなる不思議な感覚に戸惑う。今年は身の回りで不幸が続いた。遠い親戚、祖父の弟、祖母。みんなご高齢だったり、持病があったり、予想はなくとも、いつどうなるか、といった覚悟は自然と周りの人の頭にはあるものだったと思う。訃報を耳にした時は、突然のことに驚くが、受け入れるのは思っているよりも難しくなかったりする。悲しむ気持ちはもちろんある。不謹慎に取られても仕方がない書き方だけど、これまでの人生で「死」とはそのような距離感で過ごしてきた。

 最近、もう一人身近で亡くなった人がいた。大学で同じゼミに所属していた一つ上の先輩で、去年はよく飲みに行ったり、仲良くしてもらっていた。先日突然亡くなった旨の連絡が回ってきた。とても信じられなかった。今年に入ってからは、コロナの影響もあり会っていなかったが、たまに一緒にオンラインゲームをしていた。最近までインスタの投稿もしていた。友人がLINEでくれた連絡を見た時、内容はわかっているのにその文章が飲み込めず何度も読み直す時間が数分続いた。そしてその間、なんで?とだけ頭に浮かんでいた。頻繁に連絡を取って遊ぶような仲の良さではなかったけれど、漠然と、この先もたまに一緒にゲームして、たまに飲みに行けるんだろうと思っていた。それが、突然、亡くなったと。心の中が薄寒い。暗くて鈍い重さで、気持ちが沈んでいくのがわかる感覚。飲み込もうとするほど混乱した。今まで接してきた「死」とは違かった。

 死因など詳しいことはゼミの先生にも伝わっておらず、わからないまま。それも混乱の原因なのかも知れない。死因を知ったところでどうこうする訳でもないけど、なんで、って気持ちが彼を考えるたび顔を出す。数日経った今でも実感はないが、とにかくもう一緒に遊んだり騒いだりできないんだって思うと寂しい。自分にできたことがあったのではないかなんて無駄なことを考えてしまう。

 人はいつ死ぬかわからないなんて常日頃聞く言葉で、みんなわかっていることで、自分もそのつもりだった。けど結局、分かっているようで分かってなかったんだってことが分かった。そしてきっと、時が経ったらまた分かっているつもりの日常に戻るんだろうなと。常に、本当に死を意識して過ごすことはとてもエネルギーがいる。だから理屈では理解していても本当にそう思って行動していたら疲れる。それが出来るタフな人も世の中には沢山いるんだろう。自分には難しい。でも、これからは何か選択に迫られた時、きっとその考えを思い出せる。それくらい自分にとってショックのある出来事だった。もう彼に会うことはできないけれど、この先時々思い出しては今日書いたようなことを考えさせてくれるんだろうと思う。1年半の短い付き合いでも、楽しい思い出をくれた友人がいつまでも、彼を憶える皆に愛されることを願っています。