サメと猫

駐輪場おじさんとぼっち飯おじさん

駅前の駐輪場。市が運営していて、一度キャリアを終えたようなおじさんたちが管理している。

週に一、二回そこを使うんだけど、この前の帰り、いつもは小屋に一人座っているだけなのに、その入り口にもう一人立っていた。人がいない時間に自転車を停めて行きお金を払っていなかったので、その旨を手前で立っているおじさんに説明したところ、彼は後ろにいるもう一人のおじさんに「〜〜でいいんですよね。」と敬語で確認を取り、小屋おじは「そうそう、あってるよ。」と答えていた。

こんな年配の人たちがゆったり管理している駐輪場にも、新人の立場や上下関係はちゃんとあるんだなあと、不思議な気持ちだった。

 

 

一人で食事している人を見るのが苦手だ。無表情で、黙々と(モグモグと)食べている姿を見ると、どうにも物悲しい気持ちになってしまう。それも少し急ぎ目に食べていたりするとなおさらだ。同情か憐れみか、いずれにしろ余計なお世話もいいところだというのは自覚している。

自分も一人で食べることは多いし、別になんとも思わないことも知っている。でも他人のその姿は何故かダメ。最近の人はスマホなどに集中してくれているので割と大丈夫なんだけど、特に何も見ず周りをぼんやり眺めながら食べる姿は変に切なくなる。

 

子供の頃、家族でよく近くのイオンに行っていた。用事を済ませるとフードコートで夕食を食べるのが恒例だったんだけど、そこでよく見かける男の人がいた。

その人は細くてひょろっとした40代くらいの見た目で、頭頂部は禿げており、いつもジーンズにボロボロの革ジャンという同じ格好で、決まった席で一人で食事をしていた。失礼かもしれないが、見た目の特徴を並べただけでいくらか悲壮感が湧かないだろうか。どこか物憂げな表情でいたような記憶もあるが、それは勝手なイメージの可能性もある。

表情はともかく、ボロボロの革ジャンというのが、本当にボロボロだった。皮のツルツルした表面の素材なんてもう残っていないようだった。色褪せて、毛羽だって、カサカサした革ジャンは、正直自分にとってはみすぼらしさを感じさせるものだった。

そんな見た目だったので、その人がいればすぐに気づいたし、もはやそこに行くたびに探していた。そしていざ見かけるとそのたびに、いつも一人でご飯を食べていてかわいそう。寂しそう。と勝手に憐れみ、先に書いたような、切ない気持ちになっていた。幼少期の奇妙な思い出。

今思えば、あのイオンのどこかしらで働いている人だったのかもしれない。職場に行くときの服なんて、たいして気にしないものだ。いや、だとしてもあの革ジャンはボロボロすぎだと思うけど。

彼は今も元気に生きているだろうか。子供の頃の自分に、あの人もいつも一人で食べてるわけじゃないんだよ、きっと週末はピカピカの革ジャンを着て、友達と楽しく飲んでるよ。と言ってあげたい。